男女は心中前に必ずセックスをするんだって
やっぱりセックスって大事なんだ

10代のころ、渋谷パルコかロフトか西武か覚えていないのですが、渋谷のそういうメジャーな明るいところで、なぜかうす暗いやばそうな謎の変な雑誌が売っていたんですよね。
雑誌名を忘れていたのですが、最近ネットでいろいろ調べてわかりました。
雑誌名=『月光』LUNA
出版社=東京デカド社
・・という雑誌だったとわかりました。
どんな雑誌かというと現代のネットの中でのウィキペディア的な説明においては、”サブカル雑誌”、”耽美派の雑誌”、”同性愛雑誌”、”レトロ雑誌”・・・などと紹介されています。
それより、耽美派って『たんび』って読むって初めて知ったわ。
恥ずかし~!『ちび』って読んでた。
そういう雑誌だったんだ?私は同性愛、別に好きじゃなし、今だに『たんび』という字が読めなかったくらいだから、私とは縁がなさそうなんだけど、なんでこの雑誌を手にしたんだろ?
多分、表紙がレトロな漫画絵みたいでなんか興味をひいたんですよね。
表紙の絵に魅かれたんですね。
ほら、何回も書いてるけど、私は画家を一瞬目指していたんで。(本当に一瞬)
渋谷は子供のころの毎日の通り道だったので、毎日ウロついてたし、目に留まったんですね。
でもこの雑誌、開くと、表紙のような絵は一切出てこないの。
変な文章が細かい文字でダーッと書かれているのでした。
それで、この雑誌の変な文章の中で、私が一番覚えているのは、”切腹”の話。
”切腹”が趣味な人が、自分が切腹をするところを実況する・・・みたいな記事が掲載されてたの。
いや。本当の切腹ではないですよ。その人、その後も生きてて自分で文章書いてんだもん。
でも、少し切ったのは本当らしい。
男の人が実際にお腹を切ってみて痛いとか、快感だとか、感想を語っているの。
怖―っ!!
嘘でしょ??なにこれ?って思った。
で、その切腹の記事も印象的だったんだけど、他に男女の心中特集みたいなのもすごく印象的だった。
小説の中での心中話や(古くは有名な江戸時代の歌舞伎?人形浄瑠璃?の『曾根崎心中』みたいなやつとか)、他、近代に現実で、実際にあった心中事件のことなどが、色々と書いてあった。
そして、
『心中する男女は必ず、心中する直前にセックスをする』って書いてあったのがとても心に残っている。
そーなんですって。
フィクショは別にして、本当に、現実に心中した男女の体を警察の検察医が調べると、全員、死ぬ直前にセックスしてるんですって。
そうそこには書いてあった。
ほんとなのかな?
その頃セックスをしたことなかった私は衝撃を受けました。
心中というのは、愛し合っている男女が一緒に死ぬことだということはわかっていたけど、その人たちって死ぬときにまでセックスするんだ?
セックスってやっぱり男女にとってすごいでかい要素なんだ?えーっ?そうなのお?と幼い私は思った。
今ならわかるようなわからないような。
つまり、明日、地球が滅亡するというときだったら、私は間違いなくセックスしまくると思うのですね。
でも、地球が滅亡する事情でもないのに、強制的に自分の意志とは無関係に世界が終わるわけではないのに、セックスする元気も楽しみもあるくせに、自ら自分を殺しちゃう気持ちがナゾなんだよね。
そんな元気でセックスする相手がいるのであれば、別に死ぬ必要ないじゃん?とも思うのですよ。
他のもっと辛い人が・・・例えば、金のことや、病気のことや、いじめや、何やらで困り切って自殺するのと比べるとぜいたくなような気がした。
なんらかの身体的な理由で二度とセックスができない体になってしまい、それで絶望して死にたくなるっていうのなら全然理解できるけどもさ。
そこがわからないというのが、肉体の方が大事で、人間の精神というものをわかっていない私なんでしょうねえ?
心中ものの物語も映画もあまり見たことないけど、今回、家にあるものを探しました。
以前、私自身の子供のために読書感想文かなんかのために買った『人間失格』を出してきては、パラパラと心中シーンの直前のセックスシーンのページを探しましたが、『人間失格』においては、心中の場面の直前にエッチした描写はなかったです。
あと、心中が出てくる話でうちにある本だとしたら、連城三起彦さんの『戻り川心中』です。
私は太宰治よりも断然連城さんが好きでした。
でもこの『戻り川心中』は、推理小説の要素ありで、本気の心中というより、主人公の男性が女性を利用している心中なので、ちょっとミステリの要素が強くって、ちょっと違うかな?と思いつつ、今回読み返してみました。
すると、やはり心中の直前にセックスシーンはありませんでした。
この『戻り川心中』は『戻り川』と題名を変えて、萩原健一さんの主役で映画化されたことがありましたが、そっちでもあったようななかったような??記憶があいまい。
多分、心中直前にはセックスシーンはなかったような気がする。
映画は、随分と冒頭の方では、客の心を掴むためにか、素敵な濡れ濡れエッチシーンはあったかと記憶していますが。
渡辺淳一の『失楽園』は小説も読んでないし、TVも映画も見てないけど、どうも男女がセックスしながらそのまま死ぬらしい。
結合したまま死ぬらしい。
おお!!これこそ、近代の検査医たちが見てきた真実ではないか!!
渡辺さんは医者でもあるので、そっちの観点から見てこういう結末にしたのでしょうか。
でも、死んだときに結合した状態で発見されたとき恥ずかしいでしょうなあ?
親御さんやお子さんや、そしてこの『失楽園』の場合は不倫なので、配偶者様もいやでしょうなあ。
どうなんだろう。
ひどいいやがらせだよね。
そんな風に心中を美しいと思えない私ですが、私はかつて心中ではないけど、相手に刺され死にたいと思ったことがあります。
その人とセックスしまくっていましたが、それはずっとは続けられないことだと知っていたので。
で、その人とセックスできなくなるときが近づいたときに、なんか私はその人に殺されたいなあと思ってたのでした。
心中はまったく思いつきもしなかったけど、最後はその人に憎まれて刺されたいと思っていたのでした。
そのとき、ちょうど、他にもいろいろ悩み事のある時期で、会社の親しい人が心配してくれてご飯に誘ってくれて相談にのってくれました。
その心配してくれた人も、実は私がかつてセックスをしたことがあった人だったのですが(いい加減にしなさいよ!!)、もうそのころはよい友達であって、下心なしにその人は、ちょっと言動がおかしい、気持ちが不安定そうな私を見かねてごはんに誘ってくれたのでした。
・・・だと思うよ?いや、下心あっても別にいいけど、多分なかったと思うよ?
ちょうど少し前に、日本の私が住んでいない他の地域で大災害があって、多くの人が亡くなったときでした。
「あの災害に、私が会えばよかった。」
と私はそのとき、そのかつてセックスをしたけど、今はただの友達の男に言いました。
「何言っているんだ。そんなことを言ってはダメだ!その人たちに失礼だし!何言ってるんだ!」
と男友達に言われました。
「きっと、もう少ししたらその考えがいかにバカだったかわかるよ!!」
と男友達に言われました。
確かに数年後、私が元気を取り戻してから、その男友達と他の女友達など数人と一緒に楽しく飲んでいるときに
「きいて!きいて!実は昔、私、この人に危ない相談したことがあったんだ。今、死んでもいいと思っているって相談したことあるんだ!!」
と私は女友達の前で白状しました。
男友達は
「うん。あのときどうしようかと思ったよ。目がいっちゃってるし、ホントやばいなと思ったよ」
と笑いながら言いました。
「ねーほんと、ばかよね。今となっては信じられない」
と私は言いました。
他の同席していた女友達は
「えっ!二人でそんな相談してたんだ!信じられないわ?一体いつ??一体、何の話で死にたかったの?!」
って驚いていました。
「うん。仕事で煮詰まってて。今となっては笑えるよね。ほんと、頭おかしかったわ」
と私は笑いながら言いました。
「今となってはうそみたいだね~」
と男友達も笑いました。
私が刺されたいと思っていた相手とも、結局は、思いがけずに付き合いが結構長くなり、だんだん情熱もなくなり、あんまり好きでなくなってしまい、今となっては一体なんで、一瞬でもその人に刺され死にたいと思ったのか、まったく理解できません。
もしも、そのときの感情を 思い出すことができて、情熱的だと今思えれば、何かいい話とかも書けるのかもしれないけど、今や「あほじゃないか」としか思えないので、今となっては書けない。
「何言ってるんだ!」と叱ってくれた男友達の言っていることが正解でした。
そして、そんな相談をその男友達にしたからこそ、そういうことがあったということを、今覚えているだけなんですよね。
そんな感じで、普通の人たちは、刺されもしないし、心中もしないしで、セックスだけはいろいろな人と楽しくしながら生き続けるのです。
でも、今なんで私が、こんなこと思いだして書いているのかと思うと、『ただのスケベじゃない、何か情熱的な話が書きたいわ~』というある意味、文章書きとしてのプラスの発想なのか?
それとも、そうではなく、今の現実の私が、また自分が刺され殺されたいと思うような危ない恋愛をしかけている兆候なのか?
よくわかりません。
いや、ウソです。多分、真実は次です。
ブログに書くネタがなくなってきて、無理やり、なけなしの昔の思い出を一生懸命ひねり出しているだけかも。
そういう一番トホホなところが実際、ホントかもしれません。
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